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読書はいいぞ。

2年前に日本教育学会で「英語教育はパーフェクショニズムを超えられるか」という発表をした際、パターナリズムについては言及をいったん保留した(パーフェクショニズムのほうが害が大きく、早めに指摘しておくべきと考えたこともあるが)。英語教育はもうどうしようもないくらいパターナリズムの塊でできていて、随所に「余計なお世話」を観察することができるが、その余計なお世話はある意味で教育の根源的要素の一つでもあるから、もっと考えてからじゃないと批判的に提出できないと判断したのだった。

以来つらつら読んでは考えている流れで、ついには

にまでたどり着く。「贈与の平和性と暴力性」が示唆に富む。文章がどんなに難渋でもこちらは受け入れるつもりで手に取るのが岩波文庫であるのに、訳文はかなり読みやすい。ここでは、さらにわかりやすい訳者解説を引く。

「贈与=交換」もしくは「交換=贈与」が創出し、確立し、維持する「つながり」なり「絆」なりは、個人や集団を絡めとる危険な「縛り」にもなるのである。したがって、贈ること、贈られた物をもらうことは、贈る側にとっても、もらう側にとっても賭けなのだ。そのような危険な賭けを通じて、集団どうしは「つきあう」(「贈与論」第4章)ことになる。何かを賭すとは、将来の不確実性(暴力の可能性)に対峙しつつ、その不確実性を確実性(平和への期待)へと縮減すること、そしてそうしながら、その確実性に信を置くことではないだろうか。その意味で、信とは賭けであり、賭けとは信にほかならない(pp. 480–481)。

ゼミで贈与論に触れた際、かと言って「教育とは贈与なんだよ」と言って済むわけではない、というのが(教員養成上も実践上も)どこかで引っかかっていたが、上の解説でガッテン(相馬先生も冒険的性格には触れているのではあるが)。「伝わって当たり前」、「できるようにしてやらねば」の余計なお世話ではなくて、期待を込めて信を置く関わり。パターナリズムの止揚の道も少し拓けた気がする。

信じて賭けることだから、当然うまく行ったり行かなかったりする。だからパーフェクショニズムも授業の文脈には適さないし、息苦しさを招くのだ。他者との交流や「つながり」を無条件に、無批判に良しとするきらいのある英語教育、あるいは学校教育全般に対しても示唆を含んでいると言えそうだ。