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[雑感093] ぼくらのGIGAスクール抗争

[雑感093] ぼくらのGIGAスクール抗争

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2021年9月26日(日) に、第57回日本教育方法学会大会(宮城教育大学、オンライン開催)・課題研究Ⅳ「1人1台端末は学校をどう変えるのか」に登壇することとなった。その告知を兼ねた、当該課題に対する私の態度表明。

あからさまに商機として騒いでいるものはもちろん、「GIGAスクール環境」云々に飛びついて一喜一憂している論調が嫌いだ。なによりその「推進」だの「活用」だのを迫る人たちの多くの持っている経験やイメージが大方チープで、スーツやジャージにサンダルを平気で合わせる人が急にオシャレを語り出したようなダサさ、普段全く家事をしない父親が急に思いつきで料理を振る舞ってドヤ顔をしているような気持ち悪さがある。

かといって、教育におけるICT機器活用を否定する議論、もっと単純化して言えばICT機器嫌悪派を応援したいわけではない。テクノロジーの歴史や教授・学習上の価値の吟味や教具論としての相対化を経ずにそれを害悪と決めつけるのは、燃費の悪い車を乗り回してガソリンを毎日消費しながらエコを叫ぶような身勝手さがある。本人が気づいていなくてもテクノロジーの恩恵に預かってきた部分は多くあるのであって、自分たちが領有していないものだからという理由で否定したり管理的統制でがんじがらめにしたりするのは浅はかだ。

他方、長い冷遇?下積み?の期間に同情しないわけではないが、ここぞとばかりにデジタルを礼賛する向きも、あんまり好きになれない。個々人が勝手にやっている分には全く構わないが、そのツールやアイデアを良きものとして広めようとする際にディバイドの高みから自慢大会が繰り広げられると、筋トレを至上の価値として「どうしてプロテイン飲まないの?」と食事中に迫ってくるような気持ち悪さがある。各学校段階・各教科・各教室の実践上のニーズに沿った提案をしようと思えば、それはSNSでバズるためのコンテンツとして消費されるのではなく、大方は引き続き地道な取り組みになるはずだ。

前置きが長くなったが、そういう次第なので、そういう水たまりの向こう側で教育におけるテクノロジーの問題として、あるいは技術の「使用」とは何を意味しているかという問題として捉えたいと思ってあれこれ読んでいる。ガチのアガンベンに辿り着いてしまうと、もはや(最近使われる意味ではない意味での)沼に両足突っ込んでしまって身動きが取れなくなってしまう気もするが、上述の踊りに加わるぐらいなら辞めた方がマシと思って沼で溺れるのみだ。

で、まあまあ期待して手に取った『コンヴィヴィアル・テクノロジー』  は、断片的に示唆はもらうにはもらったが、あれこれの(流行りの本の)つまみ食いという印象が拭えず残念。よく言えば「よく勉強してらっしゃる」という感じだが、悪く言えば全体を貫く糸が見えず、掘り下げが弱い。

イリイチの概念の整理はレジュメのようなサブテキストとして使えるし、國分功一郎さん(や熊谷晋一郎さん)の著作からの引用が多くて「じゃあ國分さんで良いじゃん」と思う部分は割り引いて読み進めたとしても、「哲学者で教育学者の苫野一徳さんによれば、そもそも、お互いがお互いの自由を認め合おうとする『自由の相互承認』は、人間同士がようやく近代になって辿り着いた根本原理である」(p. 142)なんてこの本で苫野さんを持ち出してしまった辺りで、テクノロジーも遠くに行って、連想ゲームになってしまった。残念無念。

ということで、9月に、教育方法学会大会の課題研究Ⅳ「1人1台端末は学校をどう変えるのか」に登壇する。タイトルは、「エンハンスメントとアダプテーション: 外国語の授業づくりにおけるデジタルテクノロジーの可能性と課題」。課題研究の主旨説明に記載されているにもかかわらず、「ICT機器を『文具』に」なんて、学習者の側が(そして教師も)その「文具」を欲しいと言ったわけでもないのに、大人の都合で勝手なこと言ってんじゃねえ!という尾崎豊のような要旨を提出した。ノートにrevolutionと書きとめて育った世代としては(その頃はろくに意味も分かってなかったし、当然、綴りも知らなかったが)、そういうダサいことを言う大人にだけはなりたくないのだ。

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