教育
[雑感103]「批判」の3つの形態について

[雑感103]「批判」の3つの形態について

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「批判(的)」について理解が深まり、ネガティブなイメージが少しでも変わるといいなという記事。

ビースタ(2021)は、「批判的であること」の形態を(a)批判的ドグマティズム、(b)超越論的批判、(c)脱構築の3つに分けている。3つの形態は、何が批判の「正しさ」を与えるかが異なっている(ビースタ, 2021, p. 71)。端的に言えば、(a)は何らかの信念による批判、(b)は合理性に基づく批判、(c)はその両者の基準の問題を指摘したり他の視点に目を向けたりする批判である。

(a)にとって批判は、何らかの「基準」の適用である。したがって、批判の正しさの元となるその基準の正当性が問題になるが、最終的にその基準自体は批判されないため信念(ドクサ)の問題に帰着することになる。

例えば、「全国的に見て教室のWi-Fiネットワークの整備状況はまだまだ十分とは言えない」と現状を批判するとき、「教室に十分なWi-Fiネットワークが整備されている」という基準に照らして判断を下している。しかし、この批判はその基準を当然必要なもの、良いものとみなして批判を行っており、「なぜ教室に十分なWi-Fiネットワークが整備されるべきなのか」を問うことはない。だから「そもそもどういう授業にネットワーク通信が必要なのか」という前提自体をツっ込まれると批判の効力を失う場合がある。

ビースタによれば「批判的ドグマティズムの正当化は、批判的であることに十分ではない」が、彼は批判的ドグマティズムがただちに駄目な批判だと言っているわけではない。原理的に偏った立場ではあるが、「関心に動かされた立場であると考える方が適切である」(ビースタ, 2021, pp. 73, 88)。例えば、「子どもの貧困状態を減らすべき」という批判に対して、減らすべきかどうかを疑うことは意味がない。「子どもの貧困」をどう定義するかという点はもちろん議論の余地があるとしても、この批判は「子どもを貧困状態に置くことは良くない」というわれわれの社会の価値判断に基づくものであり、批判を正当化するためにそこを疑う必要はないからである。そして教育における批判は往々にしてこうした価値判断(ビースタの言い方では「真理」)と向き合わざるを得ない。

批判を基準の適用と考える点では(b)も同じだが、論証の形式によってそれを正当化する点が(a)と異なる。例えば、教職員の全国的な不足について考えよう。教職員定数は法律で定められた基準によって機械的に決まる「基礎定数」と、少人数指導やいじめ・不登校対応、特別支援教育のために特別に予算がつけられている「加配定数」で決まる(細かい説明はしないが、計算の仕組みや自治体への予算の配分法はかなり複雑で、これ以外に自治体が独自の予算で加配することもある)。実態を調べてみると、全国の公立学校1,897校で、2021年の授業開始時点で合計2,558人の先生が不足していた。だからこの状況に対して対策が講じられなければならない。こういったタイプの(この例の場合、現状に対する)批判である。

単に「教育の質を上げるためにもっと先生の数を増やすべき」とか、逆に「オンライン・コンテンツの活用が進めば、先生の人数はそれほど必要なくなる。減らしていくべき」といった主張は、「先生の数は多い方がよい」、あるいは「先生の人件費は少ない方がよい」といった信念に基づく批判となるが、上記はそうした価値判断抜きに、「AならばB(法律を当てはめると教職員定数はこうなる)に対して、Bではない(教職員定数を満たしていない)という事実がある。そうであれば、教職員定数の規定がおかしいか、現状が是正されるべきかのどちらかである」という論理で批判を行うことができる。逆に(b)は、この論理自体が崩れる場合に批判の効力を失う。

最後の(c)は、要するに(a)の独断性を明らかにしたり、(b)の前提を疑ったりする批判である。上の例で言えば、「子どもの貧困」の定義や教職員定数の規定自体がおかしいのではないかと問うてみるのがそれに当たるだろう。少し視点をズラして、「実際、Wi-Fiネットワークはどんな授業のどういう場面で必要となっている(のに繋がらなくて困っている)のだろうか」と問うてみることもこの批判に含まれてよい。

ビースタ(2021)はこの形態の批判に「正しさ」を与えるのは「正義」だと述べている。仮に教職員定数の規定を疑うとすれば、それは配分の仕組み自体に無理があることを指摘して予算配分や学校の配置を見直すためであって、実際の先生の人数のほうに規定を合わせることにこだわって、その状態を放置して学校を苦しめるためではない。Wi-Fiネットワークが必要となっている授業場面を問うのは、例えばその実態把握を通じて優先度の高いICT環境整備を議論するためであって、繋がらなくて困っている様子を見てほくそ笑むためではない。

(b)によって(a)の独断性や自己正当化を克服することが「クリティカル・シンキング」の目指すところだと考えている人は少なくない。しかし、ビースタ(2021)は「批判」が一枚岩の概念ではないことを示し、「合理性」(に基づく批判)の価値は、((c)の批判によって)「破壊するのではなく、むしろ排除され忘れられているものを肯定すること、予見不可能なものの可能性を開くこと」(pp. 86–87)によって生まれるのだと主張しようとしている。要するに、「はい、論破」だけの批判は不毛で、「なるほど、そういう考え方もあるか」、「その視点は見落としていた」と気づかせる批判のためにこそ、「それって、あなたの意見ですよね」ではない批判の意義がある、ということだ。

長々とビースタ(2021)の議論を紹介してこの記事を書いたのは、授業のレポートで「資料を読んで批判せよ」と求められて悩んでいたある学生にこの話をした際、「(c)も『批判』になるなんて意外だ」という反応が返ってきたからである。「批判(的)」というのはネガティブなニュアンスで毛嫌いされて久しい言葉だが、(a)や(b)のみを「批判」と考えている人は少なくないのかもしれない。そうすると、その良し悪しは別にして権威か自信がないと(a)による批判はできない(「この文章を書いた人は専門家で、それより知識があるわけでもないのに、それに対抗する「真理」など持ち合わせていない!」)し、(b)は「はい、論破」的に批判対象をたたき潰すものというイメージになりがち(「言っていることはもっともなことも多いのに、ここがおかしい、ここもヘンとダメ出しなんてできる気がしない!」)で、なるべく関わりたくないものと捉えられても不思議はない。しかし、問題に異なる角度から光を当てるもの、こういう考え方もあると思わせてくれるものも「批判」だと分かれば(「でも、こういう場合はどう考えたらいいんだろうか」、「これも含めて考えるとより全体をカバーできるよね」)、その手がかりを得るために資料にあたったり、読んだり話を聞いたりして考えるのもそれほど苦ではなくなるのではないか。当然そこには、自分がどういう考え方や価値観に捉われていたかに気づくことも含まれる。というよりも、批判的であることの意義の大半はそれだろう。

レポートを課した先生も(a)や(b)(だけ)の批判を求めているわけではないと思う(少なくともこの話の時の資料を見せてもらった限りではそう感じた)よ、と伝えたら、「だったらそう言ってほしい」と合理的で脱構築的な批判コメントをもらった。Be critical.

参考文献:

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