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を読了。

決して読みやすくはない。第1章「言語使用とコンテクスト」の諸理論をまたぐ眺望に惹かれて読み進めたが、それ以降はLeech (2003)等を引き合いに出しながらの、Brown & Levinson (1987)の丁寧過ぎる解説が延々続いてなかなかつらかった。

それでも、著者自身が収集した実例を伴う第4章「積極的ポライトネス」あたりから勢いが戻ってきて、同意するしないは別にして、第5章「現代日本語の中のポライトネス現象」は著者の独自性が表れた考察として興味深く読める。

個人的には次の一節で本書に捧げた時間が報われた。

方略(strategy)という用語を使って分析的に眺める方法に抵抗を感じる人もいるかもしれません。ここで強調しておきたいことは、方略的(strategic)であることと操作的(manipulative)であることの二つを明確に区別してほしいということです。すでに見たように、前者は「ポライトネス意図」に基づいてさまざまな言語表現を選ぶことです。一方、後者は「相手のフェイスとは無関係に、自分の目的のために他人を利用し操ること」です。操作的な対人的アプローチばかり取る人は、最終的にみんなからの信頼を失ってしまいます。本書で言う「方略的」は、そのような操作主義とは無関係なものです。

私の見るところでは、日本語母語話者の多くは会話や文章を分析的に見るよりは、情緒的、感覚的に味わうほうを好むようです。また、言語の使用についても、自然に思いつくまま溢れ出てくる本当の気持ちを素直に表現すればそれでよいとする人も多いでしょう。言語学の講義を初めて受ける学生の中には、「言語は意識しないで自然に使っています。それをわざわざ分析する必要がないし、分析すればかえってぎこちなくなるだけです」という主旨の感想を書く人もたまにはいます。「言語は意識しないで自然に使っている」と言うのは半分以上当たっていますが、だから分析対象にならないというのは間違っています。あらゆる科学は、自然そのものや自然に行われていると見える物事を分析・総合して研究対象にしています。言語学もその一つです。

ポライトネスに関する方略の選択は、「無意識に」あるいは「反意識的に」あるいは「より意識的に」行われるものであり、意識の有無については「程度」の問題であるということを銘記してください(pp. 160-161)。

余談だが、陰ながら開拓社の言語・文化選書を応援している。想定読者も出来栄えも様々ではあるが、価格が低く抑えられているのが魅力的で、装丁も表紙の手触りも上品。予算があれば、英語教師志望の学生が気軽に手に取れる場所に全巻配置しておきたいのだが。。。