[レビュー019]『子どものうそ、大人の皮肉』(松井, 2013)

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ずっと読みたいと思っていた本をようやく読むことができた。

英語教育界隈でこの本への言及を目にしたことはない(『英語教育』8月号の特集「英語教師のための おすすめの本100冊+」でも誰も挙げていなかった)が、英語教師こそ本書を読むべきだと思う。「正確」かつ「流暢」に英語を用いさえすれば「コミュニケーション」が成り立つと思っているとしたらなおさらだ。

そんな皮相な言語観・コミュニケーション観の英語教育関係者はいないと思いたいが、授業や議論を見聞きしていると、著者の次のような視点がどのくらいあるかなと不安になることは少なくない。

なにげなく言った、あるいは言われた、ひとことの重みを感じることができる唯一の機会は、そこに何らかの違和感が生じるとき、つまりことばを発しても思ったようには解釈されない、あるいはことばを聞いてもうまく解釈できないというときかもしれない(p. 69)。…一方、皮肉でも冗談でもない普通の会話で違和感が生じると、たいていの場合、コミュニケーションの流れがそこで止まり、むしろマイナスの効果を生む。そのような違和感は、できるだけ避けたいものだ。だが、この違和感は、皮肉や冗談の場合も、普通の会話の場合も共通に、会話のことばを理解するプロセスの複雑さに気づく機会を与えてくれるという点では貴重なものだ。そしてそのような気づきは、それ以降のコミュニケーションを理想の形に近づけるために不可欠である(p. 70)。

著者自身の息子のエピソードを織り交ぜながら、ことばと思考の発達を実験に基づいて語るところから本書は始まる。「よ」や「かな」といった文末助詞によって表される自信の度合いを区別できるようになるのは、「見た」、「聞いた」といった動詞で伝えられる証拠の強さを区別できるようになるのは何歳ぐらいからかといった話。あるいは、うそや皮肉、他人の心・信念について理解できるようになるのはいつ頃かといった話。前者については、

などでも解説されているような実験で、後者については(やや古いが)

などで教育(心理)学では広く知られるようになった話だが、本書の解説は語り口が柔らかく、端的で、とてもわかりやすい。三章は「語用障害が教えてくれること」で、高機能自閉症やアスペルガー症候群の人にとって「ことば」がどのようなものであるかが解説されている。こちらも、

などによって光が当てられてきた話が繊細かつわかりやすく。本書が取り上げているエピソードだけでこの分野の全体像がすっかりまるっと得られるというわけでは勿論ないけれども、上掲の文献で私がかき集めてきたようなことが本書一冊でクリアに眺望できるという点で大変お得な一冊だ。

とは言え、それは副産物であって、その眺望も冒頭の視点につながるものであるというところが重要だ。

会話のことばを選ぶとき、話し手は相手にわかってもらいたいと思っているだろう。また、聞き手は相手の話を聞くとき、相手の意図を理解したいと思っているはずだ。しかし現実には、ことばになっていない相手の意図をただしく理解することは決して簡単なことではない。自分はわかったようなつもりになっていたけれども、もしかすると自分勝手な解釈をしていただけで、相手の意図は、本当は別のところにあったということが、少なからずあるかもしれない。しかし、相手の言ったことをわかったつもりになってしまう、あるいは相手に自分の言ったことをわかってもらえたと思ってしまう傾向が、誰にでもある。そのために、解釈がずれていてもそれに気づかないことも多いのではないだろうか。

じつは、会話のことばを聞いて、わかったつもりになってしまうのには理由がある。…私たちは会話のことばを解釈するときに、いったん「わかった」と思ってしまうと、そこで解釈を止めてしまう傾向があるのだ。注意や情報処理労力といった認知資源をできるだけ節約しようとする生物的なしくみが働いているからだと考えられる。そのようなしくみは、恩恵も大きいが、会話における誤解の可能性は残されたままだ。

対照的に、「わかったつもり」にならず、相手の言ったことをわかろうと何度も立ち止まって考えたり、「わかってもらったつもり」にならず、ことばを念入りに選んで伝えようとしたりするのが語用障害の人たちではないかと思う。文脈の理解が苦手である一方で、ことばを非常に厳密に選択し、解釈することが得意で、私にはとても真似ができない(pp. 98-99)。

さらにお得なことに本書は、関連性理論の入門書にもなっている。こう言っては語用論の先生がたに怒られそうだが、関連性理論に触れた文献はどれも、たとえ「入門」と銘打っていてもある程度の言語学的知識を前提としており、わかりやすいとは言い難い。そうした文献と比べると本書は本当に稀有な存在で、関連性理論の詳しい話は第5章まで出てこないにもかかわらず、その第5章でも専門用語は極力省かれているにもかかわらず、関連性理論の(考え方の)最良の入門書になっていると感じる。つまり冒頭の視点は、話し手の立場からだけでなく、聞き手の立場からの発話解釈のメカニズムの考察に支えられているのだ。

話し手の立場から見ると、コミュニケーションにおいて誤解が生じる場合には、少なくとも3つの異なった状況が関与していると考えられる。1つは、話し手自身が自分の思っていることをうまく把握できなかった場合だ。つまり、自分の心を読み誤ったときである。2つめは、話し手自身は自分の思いをきちんと把握できたものの、それを的確にことばにできなかったときだ。心とことばをうまく結びつけることができなかったということだ。最後は、話し手はきちんとことばを選んで表現したはずなのに、それがうまく相手に伝わらなかったとき。何らかの理由で、ことばの意味と伝えたかったことの間のギャップを、相手が埋められなかったことが原因だ。

一方、聞き手の立場から見ると、この最後のパターンのみが誤解の原因となる。聞き手には、話し手の心の中は見えない。だから、聞き手にとってのコミュニケーションのプロセスは、話し手が何かを伝えようとしていることが具体的に確認できたところから始まる。たとえば話し手がこちらを見てことばを発したときだ。聞き手は話し手が発したことばを手がかりに、話し手が伝えたかったことを見つけなければならないが、そのギャップをうまく埋められない場合が少なくとも2通りある。

1つは使われたことばの意味は理解したけれども、行間はうまく読めなかった、あるいは誤解してしまったという場合だ。この章では、話し手がことばを通して伝えようとした意味を、ことばにしないで伝えようとした意味、つまり行間の意味と区別しよう。そしてことばを通して伝えようとした意味を「ことばのオモテ」、ことばにしないで伝えようとした意味を「ことばのウラ」とよぶことにする。ことばのオモテは理解できたけれども、そのウラにあるメッセージを読み誤ってしまったということはよく起こる。

もう1つは、聞き手がそもそも使われたことばの意味を取り違えてしまったという場合である。話し手がことばを通して伝えようとした意味、つまりことばのオモテは1つであるとは限らないからだ(pp. 103-104)。

以上は全て、本書の教科書的効用で、私が本書を英語教師に薦める最も大きな理由は第6章「過大評価しがちな話し手」にある。

(中略)程度の差はあれ、たいていの人はコミュニケーションが成立するのに必要な予測能力、自己・他者モニター能力、相手の反応によって言い方や文脈を使い分けていく能力、誤解を認識して対応する能力を持ち合わせていると言ってよいだろう。ただ、それらを使わない、使えないときもあるということだ。そこで(中略)どういうときに私たちはこのような能力を使わない、使えなくなってしまうのかについて、つまり我々の話し手と聞き手としての限界とでもいうべきものについて考えてみたい。理想的な話し手になるにはどうしたらよいか、という話ではない。それとはほど遠い、かなり自己中心的な話し手と聞き手に私たちがなりうるということに前提にして、つまりコミュニケーションが失敗することも当然あるということを前提として、私たちがどういう状況でその要因を作るのかを考えてみたいのだ。複雑な要因が関わっていてその全貌を理解することは難しいが、部分的にでも理解できていれば、コミュニケーションがうまくいかなかったときに、その原因を把握することが少しは容易になるかもしれない(p. 181)。

英語教師も英語学習者もあいにく、このことに無頓着な教材や指導法に囲まれている。私は以下の記述を、「聞き手の立場」への配慮がどれほど喚起されるか心許ないクラスメートとの、理想状態でかわされるインタラクションばかりを前提とした英語教育に対する警句として読んだ。

どうやら私たちは、自分がメッセージの送り手になると、相手がその意味を自分の意図したとおりに理解してくれると思いがちなようだ。相手を過大評価しているということになる。その一方で、発話にこめた情報(言語の意味、構造、イントネーション、表情など)は、自分が意図した解釈を聞き手が導き出すために十分であると思う傾向もあるようだ。つまり、自分を過大評価しているというわけだ。そしてこれらの傾向は、聞き手が親しい間柄の人間であればあるほど強くなる。時間のプレッシャーがあるときや、疲れているときはなおさらだ(p. 200)。

平田オリザが演劇の立場から『わかりあえないことから』で述べていることとつながってくる話だが、私の印象としては、本書はもっとわかりやすい(というか併せて読みたい)。

最後は、自分への戒めも含め、学会で独りよがりな発表をする人に向けて。

私たちのほとんどは、素人の話し手として一生を過ごすことになるかもしれない。そんな私たちが「もっと聞きたい」と聞き手に思ってもらうためにできることはなんだろうか。ひとつは、どんな聞き手でも、自分の処理労力が少なくて済むことを好むということを肝に銘じることだ。まずは自分の話を聞いてくれる相手に、余計な認知的負荷をかけていないかを意識することが肝心だ。これは聞き手の能力や状態を推測し、それに合わせて判断しなくてはならない。わかりやすさばかりを追求しても、認知効果がなければ聞き手の注意が他へ行ってしまうこともあるので注意が必要だ(p. 209)。

1 Comment

  1. 興味深く拝読させていただきました。教科として英語を教える立場として戒めなければならないと思いました。マルティプル・インテリジェンシーズの観点から見た授業構成から、さらに一歩進められる新たな視点に気づきました。ありがとうございました。

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