教育
[雑感095] 外国語教育の歴史的展望

[雑感095] 外国語教育の歴史的展望

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一般社団法人・ことばの教育の2021年度講演会の感想。和歌山大学名誉教授の江利川春雄先生が「外国語存廃論争が問う外国語教育の目的と価値」という演題で講演してくださった。

江利川先生は、明治の小学校英語存廃論から現在に至るまでの外国語教育の目的と価値をめぐる議論を整理し、「コモン(公共財)としての外国語教育へ」という提言で講演をまとめられた。それに対して私が、雑誌『教育』や『流行に踊る日本の教育』の拙稿で提示している議論を念頭に、「コモンとしての外国語教育」を展望する上で、日本独特の「新自由主義」(苅谷, 2019)にしろ文化教養的価値にしろ、外国語学習の効用も(成否に対する)責任も全て個人に帰属するものと捉えられがちな現状において、「コモン」との相性の悪さにどう対応していこうか、と問うた。言い換えれば、われわれは、外国語学習に「自分のため」以外の目的を見出し、「社会的効率」(ラバリー, 2018、ないしは神代, 2020)に絡め取られないような公共的意義において合意を形成できるかという問題である。

江利川先生と私の見解は、地域の実情に即した「コモンとしての外国語教育」を模索すれば、それは必ずしも英語とは限らず、朝鮮語・韓国語やポルトガル語、スペイン語が主たる位置を占める可能性もあることを認めるものだが、そのやり取りを受けて別の先生から、「個人のためでもない、国家のためでもない、共同体の成員としてともに学び合う『コモンとしての外国語教育』という考えが具体的に整備されれば、地域や学校によって様々な工夫が出てくる一方で、かえって新たなエリート教育を生む可能性があるのではないか」という鋭い意見が提示された。実際そういう展開もあり得るだろうと思うし、教育に社会的効率や社会移動の機能を求めることは原理的にも防ぎようがない。

言及した『追いついた近代 消えた近代』で苅谷さんが(市川昭午さんの『愛国心』を引いて)説明していることだが、どう見ても、社会契約に基づく市民社会が国家を形成するという「シビック型」ではなく、民族共同体を前提とする「エスニック型」である日本の現状(故に郷土・国家・国際社会という形で、国家と社会が結び付けられ、ナショナリズム的なアイデンティティ形成と両立するというのが苅谷さん[市川さん]の議論)からすれば、今後数十年の間に「そうは言ってもわが子にはドミナントな言語である英語をとにかく学ばせたい」と考える者たちをターゲットとした「エリート教育」の動きは私教育だけでなく公教育にも影響を与え続けるだろうし、複言語・複文化主義がエリート層に歓迎され、一部だけがその充実した言語教育環境を享受できるという可能性は大いにある。初中等教育の範囲では特に、地域によって日本語モノリンガリズムの強化と、それへの抵抗といったことも様々に起きてくるだろう。だから、「コモンとしての外国語教育」が民主的平等の方向を拡充し得るとしても、理念や制度によってそれが追究されるというよりは現実に翻弄される中での抵抗の一つの在り方としてのみ観察し得るものになってしまうのではないかという予測から、その展望について私は全く楽観できないでいる、というのが上の問いの趣旨であった。

それでも、今後の、言語環境をめぐる社会の動乱の中でローカルな言語教育の実践の事実を一つひとつ積み重ねていくしかない、と今の私は思うわけだが、野山広先生(国立国語研究所)がコメントで仰っていた言語政策の問題として、国語教育や外国語教育(日本語、英語、その他の言語)が協力をして動かねばならない問題だとも思う。江利川先生の講演に戻ると、ラベルは違えど、メタ言語能力といった観点も含め、基本的な論点は明治・大正・昭和に既に提示されているというのがやはり面白い。岡倉由三郎や福原麟太郎のような先人がいろいろ考えていないわけがないのだから当然と言えば当然なのだが、その歴史から学んだはずのわれわれは現在に振り回される以上の何かを成し得るだろうか。

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