レビュー
[レビュー061] 国語教育の3冊

[レビュー061] 国語教育の3冊

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4月から始まる高校の新課程で、外国語科に負けず劣らず、あるいはそれ以上に激変を被るのが国語科である。そのことは数年前の時点で

などで指摘されているのだが、今年度、ゼミ生が英語と国語の教科横断的なテーマで卒論に取り組んだこともあって、国語教育に関する文献をふだんより多く手に取った。

は今回の指導要領改訂の変化を点で見るのではなく、これまでの国語教育が抱えてきた課題との連続で線として記述している点で得られる示唆が多い。これまでの教科書が「羅生門」や「こころ」をどう切り取り、授業ではどう読まれてきたか、あるいは読まれずにきたか。作品分析に深く立ち入らずして教育内容・教材構成はできないと感じさせられる学生・院生の頃のゼミの議論を思い出した。私は、書き下ろしの第5章「『評論文』をどう読むか: 『「である」ことと「する」こと』再読」が最も興味深かった。各社の教科書での切り取り方の異同が整理して示され、そんなに違うんだという驚きと、私自身も教科書で出会って好きな同評論がさまざまな形で作為的に使われている実態と。

は、読解における推論と想像を峻別し、前者を必要とする「文字通りでない意味」にフォーカスを当て、意味論的概念によってそれを具体的に解説しているという点でゼミ生には役に立つ参考文献となったようだ。局所的な読みの指導過程のためには知っておいて損をしないことが書かれているものの、タイトルが意味するものについては五味渕 (2021)を踏まえて慎重に吟味したい。

菅井 (2021)は冒頭で、「一般社会」の中に「学校社会」が含まれるベン図を示し、「学校社会で通用するものは一般社会でも通用しなければなりませんし、逆に一般社会で通用しないものは学校社会で積極的に取り上げる意味はない」(p. 4)と述べている。しかし、「一般社会」がいかなるものを指しているのかも「通用する」が誰に対してどういう意味でなのかも定かではなく、「学校社会」をその「真部分集合」とみなすことに問題がないかどうかについては、よく知られるデューイの「萌芽的社会」がそういう意味ではないということを論じているビースタ (2021)の第8章などを踏まえて考えるべきだろう。

最後に、

は、編者の薫陶を受けた執筆者たちの小中高大を対象とする43本の教材案を束ねたもの。タイトルにある通り、「マンガ・絵本・写真」、「映像」、「音楽」、「その他」に整理された教材には、『ドラえもん』のような定番と言っても差し支えないものから『鬼滅の刃』や『あつまれ どうぶつの森』までが並ぶ。それらの教材が十分に吟味され、国語教育の観点からの批判をくぐり抜けているわけではない。最後のカテゴリーに「中田敦彦のYouTube大学」がプレゼンについて学ぶ素材として取り上げられているなど、危ういものもある。実際の児童・生徒・学生の声が載せられているわけではないので、その点も本書の惜しいところで、授業にかけた際の展開がイメージしにくいかもしれない。

だが、冒頭の編者のことばにあるように、「中身が面白くなきゃはじまらない」というスタンスに貫かれた教材案は、最近の「ポンチ絵」や整えられた図表に何もかもを詰め込んで「ほら、よく考えているでしょ、合理的で計画的でしょ、PDCAしっかり回している私偉いでしょ、褒めて褒めて」と主張してくるばかりで中身が退屈な指導案に比べれば、雑味があって逆に好感が持てる。7、80年以上生きている長老みたいなことを言うが「その意気や良し」と思うものが少なくないのだ。そして「サブカル」のおかげで昭和の授業プランほどにはごつごつしていない。言語教育に関わる先生がたはたくさんのアイデアをここから引き出せるだろう。

編者の町田は、「サブカルチャーの主要な教材価値」を(1)学習者の興味・関心の喚起、(2)多様なメディアを国語科の教材として取り入れること、(3)国語教育の「不易流行」を考えるに際して、常に「流行」の部分を担うという点、(4)学習者中心の考え方の4つに見ているが、それぞれの作品が持つ言語面での豊かさの視点であれ、マルチモーダル・リテラシーという視点であれ、本書の中にはそれ以上のものを含んでいる教材が複数あると思う。

英語だったらどう展開できるかなと終始インスパイアされながら読みつつ、英語教育でこうした文献が全然現れる気配がないことを哀しく思った。『サブカル英語教育学』を編むべきは……私か。

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