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[雑感112] 日本教育方法学会第58回大会

[雑感112] 日本教育方法学会第58回大会

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日本教育方法学会第58回大会(山口大学)の感想。

課題研究Ⅰ。教育方法学者の多くにとって「授業」は、端的に研究の目線で言えば種々の変数に基づくデータ収集の対象なんだけど、いわゆる指導助言者も被教育経験と「教える側」としてのスタンスに埋め込まれていて、そこに関わる自分自身も変数の一つとして投入されざるを得ないってことだよね、と思いながら聞いた。

それ故に、良い悪いは別として、研究アプローチも「教育方法学者」のアイデンティティも多様にならざるを得ないし、そういう現象の特性を踏まえて授業を研究する際、工学的な計量化に一足飛びするのは、その価値負荷性や圧縮・削減されている情報に無自覚である場合特に、危ういと思う。ま無自覚であれば何であれ危ういのだが、少なくともどういう「量」の測定が授業にとって意味があるかについてまだ十分な合意も蓄積もない。というか、授業(の構造)をどうモデリングしているかというのが示されないと、点でデータを集めてもほとんど意味がないと思うな。

シンポジウム。「学校・学級で学ぶことの意味を問う」とき、その意味が発生する関係性の規模、あるいは集団のサイズを切り口とする質問を投げたのは、教育心理学や学習科学っぽい考え方をすれば、創発的な考え・意見を生み出したり他者のそれの恩恵を受けたりすることに最低限必要な人数はどのくらいで、どのくらいで頭打ちになるのか、ということが端的にある。これは藤村先生の報告に対する補助線的な意味合い。

ただそれよりも、「令和の日本型学校教育」などと言って、「学校・学級で学ぶことの意味」を語るとき、そこには学校・学級にいる全員が能動的で、自律的で、意図する学習に対してポジティブであるかのような強い個人の前提が漂う。ここ最近の拙稿で、GIGAスクール構想云々には、子どもの学びや一挙手一投足が漏れなく把握できるかのような「under control幻想」があることを指摘してきたが、こうした強い個人を前提とする意味語りも、この幻想についてはさほど変わらない(under controlの予定調和的な部分でのみ学習の「意味」を見出そうとしてしまう)のではないか。

ということを、私が雑な言葉で言うよりも、藤本さんが報告の中で滋味豊かにズバズバ指摘されたので、ひたすら感嘆して、私の補助線など必要なく、院生の頃と同様にただ叫いただけだったなあと反省した。「学校・学級で学ぶことの意味」を所与のものとするのではなく、まさしく授業の様々な事実、様々な関係性での子どもの姿から、それが時に否定的なものであったり、教える側が拾い損ねたりする可能性も含めて、いわば「学校・学級で学ぶことの意味を問う」ことの意味を藤本さんは鮮やかに示されたと思う。

十分な議論の時間はなかったけれども、器としての「学校・学級」の役割を問い直すというか、依然としてそれがあることの意義はそこで十分問い直されていた、とも私は思う。(教育方法学の議論をしているのだから)35〜40人のサイズを今すぐ制度的にどうすべきということではない。そこで起きる学びを教師が全部掌握できるなどと思わないほうがいいし、むしろ予想もつかない子どもたちのあらわれを見取り、それも授業の一部にしようと試行錯誤する教師たちから学ぶほうがよい(その点において学校・学級が役割を終えているなどということはない)、ということは田村先生にはどう伝わったかな。

ラウンドテーブル。赤木さんに声をかけてもらって、「教師と子どもからみた授業スタンダード」に指定討論者的立場での登壇。教育方法学会で、教育行政学者と発達心理学者とコラボができてとても楽しかったし、お二方の報告がとても良かったので、短い時間でも実のある議論ができた。

研究者サイドは授業スタンダードに懐疑的・批判的なことが多い(し、実際、教育方法学会の会員だけで固められた企画ならそういうトーンになりそうだ)が、現場教員の意識とはズレているのではないか?という問いが出発点で、まず教員や子どもがそれをどう認識しているのかを捉えようという企画趣旨。

声をかけてもらった時点では、このテーマなら、赤木(2019)の「適切な」遊びからの転換、「一緒主義」からの転換、「できるようになる」からの転換の提言になぞらえた授業観の転換・拡張を訴えることになるかなあと想定しつつ、当の赤木さんがいるのに?まあ赤木さんはコーディネーターだから私が代弁でいいのか?などとゴニョゴニョ考えていたのだが、少し前にお二方の報告資料が届いて、何が教師・子どもにそう認識させているのかを問わねばなるまいなと覚悟を決めた。

個別の質問というかコメントもあれこれしたのだが、澤田さんの報告を聞いていて、「授業スタンダード」の装いとして、(a)個人が質保証責任を問われることを回避できそう、(b)成果の確らしさがありそう、(c)所掌範囲が限定できそうといったことがありそうと思えた。とすると、かねて教職の特徴として指摘されてきた「再帰性・不確実性・無境界性」(佐藤, 1994)が(プラス面の発揮ではなく)相当のしんどさとして教師にのしかかっている現実があり、それらを何とか低減しようとする志向・欲求が、授業スタンダードへのもたれかかりを導いていると捉えられる。

もちろんそれを指摘・批判して終わりではダメで、前岡さんの報告を踏まえれば、その中にこそ同僚性・公共性・インクルージョンのタネを見出せるかどうかが問われているのだろう、というのが私のコメントの締め括り。同僚との対話の必要性は既に報告で澤田さんが指摘していたが、その後の議論で保護者の要求の影響にまで議論が広がり、コミュニティ・スクールなどを通じて、授業スタンダード要求の現実性・必要性をめぐるコミュニケーションの場が必要で、それによって相対化が展望できるのではないかというところまで話を進められた。

尤も、そのきっかけはやっぱり子どもの事実からかなと準備段階で思っていたら、6年生ぐらいになるとスタンダードの同調性に違和感を持ち出す子どもが増えるという結果を先生方につきつけても、身につけるべき規範としてそれは必要という、手段としても目的としても授業スタンダードを内面化して(しまって)いる教師の存在を前岡さんに教えられ、そうしたコミュニケーションの実現の道が険しそうな現実もつきつけられてしまったのではあるが。

午前中の自由研究発表の司会業務も、オンライン参加の松下先生と阿吽の呼吸で、なんとかうまく運営できた。久しぶりの充実した学会参加で、年月の経過も感じつつ、大事な感覚をいろいろ取り戻した。対面の学会参加ってやっぱりいいですね。

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