レビュー
[本126] ケズナジャット『鴨川ランナー』

[本126] ケズナジャット『鴨川ランナー』

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最近は英語教育の雑誌にまともに目を通していないので、私が見逃していただけで、誰かがちゃんと言及していてくれたなら、と思う。しかしながら、見聞きする範囲で英語教育界隈の人が本書を話題にしているのは聞いたことがない(まあ文学は個人的体験の範囲の中にあってよいと思うほうだから、話題にのぼらないとダメというわけではないが)。でも、日本の英語教育関係者が本書に収録された2作品を読まずしてどうするんだろう。

「こうして彼らを見ていると、なんだか滑稽な気持ちになる。その多くは英語の教員だろう。同類のきみには分かる。今しがた海外からの直行便を降りてきたようなコスモポリタンな雰囲気をここで繕おうとしている者の大半は日曜日の朝となるとどこかの田舎の学校の教室で低学年の小学生に向かって天気だの曜日だの、初級の英単語をいやに陽気な声で歌っているだろう。それはきみを含めての話だが。きみたちが抱いている欲望はあまりにも赤裸々だ。全員が少しでも人間との接点を求めていて、その欲望はまた何らかの欠如を示している。自分もその一人だと思うときみはなんだか恥ずかしくなる」(p. 50)。久々にシビれる言語化が他にも複数。

鴻巣友季子さんが『文学は予言する』(新潮社)の中で『生まれつき翻訳』の文脈で言及し、先日紹介した『千葉からほとんど出ない引きこもりの俺が、一度も海外に行ったことがないままルーマニア語の小説家になった話』の中で、同じ文脈で済東さんも言及していた。

ChatGPT云々もいいけど、私は、人が紡いだ文学のほうからより多くを汲み出す人間でありたいし、みんながますます読む力を衰えさせるなら、こちらはユニークさを増して、仕事もますます増えるだけじゃん、と思う。まあ適宜、利用するんですけどね。下手の考え休むに似たりの騒ぎには辟易。

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