[雑感097] チ。の知

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薔薇の名前』についての思考。あるいは書物が伝えること、書物を伝えること。

研究者界隈を密かに熱くさせている『チ。: 地球の運動について』を読んだ時に浮かんだのは、ガリレオやティコ・ブラーエなどをめぐる科学史・科学哲学の議論というよりは、ウンベルト・エーコ『薔薇の名前』の異端審問官ベルナール・ギーだった。

それで、学生時代は背伸びして味わったフリをしていたが、時間を見つけて、20年ぶりに『薔薇の名前』を(ちゃんと)再読してみようかとぼんやり思っていたところ、ふと

を見つけた。終日会議で英語教育の話はもう頭に入ってこないという日に休憩がてら読み出したら、面白くて一気に読んだ。と言っても本書はほぼ趣味の読書で、私のレビューを参考にしていると言ってくれる人たちに薦める類の本ではないが(文学体験は個人のものだと考えるほうなので、自分が読んだ小説をここで紹介することは基本的にはなく、本書はその延長線上にあるものと言える)、聖俗の権力関係、教会改革、異端問題といった歴史的背景や、散りばめられた仕掛けの解読のおかげで『薔薇の名前』の奥行きがよく理解できた。写本や羊皮紙について詳しく説明されていたのもよかった(羊皮紙が羊の皮で作られるとは限らないことを初めて知った)。『薔薇の名前』のウィリアムは中世にあって近代に足を踏み入れている人物として描かれているわけで、『チ。』で『薔薇の名前』がうっすら想起されたのは間違いではない。『薔薇の名前』を最初に読んで以降に出会った『ヨーロッパ大全』、『中世の覚醒』、『テクストのぶどう畑で』などの文献の内容もいろいろ繋がった。

[卒業論文において]エーコはトマス[・アクィナスー引用者]を中世という時代に位置付けて、トマスが追求する体系的な思考を中世の文脈において浮かび上がらせようとした。これは、ベネデット・クローチェの思弁的歴史観のような中世をすでに乗り越えられたと見る態度とも異なるし、ネオ・トミスムのようなトマスの思想を性急に拡大適用させよとする態度とも異なっている。つまり、「中世」をありのままに捉えようとする姿勢と言える。ここで展開されるトマスの哲学と中世文化への眼差しをエーコは一貫して持ち続けることになる。もちろん『薔薇の名前』にもそれは反映されるであろう(図師, 2021, p. 7)。

なるほど。『Modern Love』シーズン2のエピソード3 “Strangers on a (Dublin) Train”で、新型コロナウィルスで大学が封鎖となったためダブリンに帰ることにした主人公(Lucy Boynton、映画『ボヘミアン・ラプソディ』のメアリー・オースティン役)が、列車で乗り合わせた男性との会話で、専攻がmedieval studiesだということで「中世的精神とは何?」と訊かれるシーンがあるが、1990年代なら『薔薇の名前』で描かれているアレ、と答えたのかもしれない。

別のところでも書いたが、私の書く書評めいたものは結局のところ私の読後メモに過ぎない。本を買って読む自由を享受していることの恩返しとして、そのメモでも誰かの役に立つことがあればと公開しているだけだ。ただ、みんな本や論文を一生懸命出すものの、出された本や論文についての批判的受容や対話が不足しているという思いがずっとある。査読付論文を至上のものとし、研究者の「業績」として書籍を一段低く見る風潮も頭が悪い。本が刊行されて読者の手に届くまでに関わる人の多さや、企画・編集、部数・価格の設定などの厳しい判断の実際を少しでも知る者として(ぜひ『重版出来』を読もう)、本がpublishされるからにはもっとpublicに(正当な評価という意味で)appreciateされるべきと思うのだ。これが水平的な次元での受容・対話の要求だとすれば、『薔薇の名前』は言うなればそれを垂直的次元で扱ったもの(という体裁で編まれた)物語だと言える。

かつては文化がフィルターの役割を果たしていた。そのフィルタリングによって保存すべきものと忘れるべきものが示され、暗黙裡の共通基盤として構成メンバー間の対話の継続が保証されていた。インターネットの普及で、ありとあらゆる情報が入手可能になり、端末を使えば何でもいくらでも知ることができるようになった。インターネットはすべてを与えてくれるが、それによって私たちは、もはや文化という仲介によらず、自分自身の頭でフィルタリングを行うことを余儀なくされる。共通のフィルタリングを経ないということは、相互理解には妨げとなる。グローバル化の進展は人類共通の土台を築くのとは逆に、共有経験の細分化をもたらしたのだ。

そうした現在、私たちにとって記憶とは何かと問われたエーコは、「考えをまとめて結論を導く技術」だと答える。つまり、「真偽を確かめられない情報をチェックする方法を覚えること」である。インターネットに対する批評感覚を鍛え、何でもかんでも鵜呑みにしないことを覚える鍛錬が必要となる。インターネット上の情報であれ、それ以前の情報であれ、それらは事実を再構成したものであることに変わりない。何かを習得するプロセスこそが大事になるのだ(図師, 2021, pp. 203–204)。

チ。』が契機ではあったが、『薔薇の名前』をはじめとするエーコの著作はきわめて今日的な問題と、そして私がキュレーション的な活動を行う意味とも大いに繋がっているようだ。図師 (2021)が改めてそういうことを考えさせてくれた。ついでに申し添えれば、『チ。』は展開の思い切ったところと主題のコントラストが見事。各巻に研究法のテキストに載せたいシーンがある。

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