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[レビュー071] 江利川『英語と日本人』

[レビュー071] 江利川『英語と日本人』

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いただきもの。テンポの良い文章でぐいぐいと読ませる。200年をまさに駆け抜けるという感じだが、新書にはちょうど良い疾走感。論争に細かく分け入った、姉妹編の

より読みやすく、初学者やふだん英語教育に関わりを持たない人はこちらから読むとよい。駆け抜けると言っても、関係性や経緯についてかゆいところに手の届いた記述が光る。

例えば、今の(財)語学教育研究所(通称・語研)の前身である英語教授研究所の話で、1922(大正11)年に来日し、所長となったH. E. パーマーについては、オーラル・メソッドとの関わりで触れている文献はたくさんある。語研が授与する「パーマー賞」も英語教育界ではそれなりによく知られている。しかし彼を招聘するお金を出したのが、上野の国立西洋美術館の母体となった松方コレクションで有名な、松方幸次郎だということに触れられることはない。

本書ではその事実や、松方が、文部官僚として明治期の初等・中等教育の整備に深く関わり、成城学園の創設者として知られる沢柳政太郎とロンドンで出会い、英語教育論で意気投合した経緯が簡潔にまとめられている(故に沢柳が英語教授研究所の理事長となった。pp. 131–132)。断片的な事実を羅列されるのが苦手で、諸々の関係性を早めに知りたい私にとっては、もっと若い時に出会いたかった記述だ。

3月にELEC同友会英語教育学会第20回教科書著者による小・中・高教科書指導法ワークショップに登壇する機会を得た。このELEC((財)英語教育協議会)の前進についても同様の設立経緯がまとめられている(pp. 198–202)。しかも単に、オーラル・アプローチによるパターン・プラクティスで影響を残したC. フリーズらのことに触れるだけでなく、「アメリカの戦略と経済界の要望」として、戦後10年ほど経った日米関係にどういう思惑があって今に至っているかが把握しやすいようになっている。

つまり、200年の間の英語に関する出来事をただ並べているのではなく、常に現在と教育の視点で照射しながら過去を整理しているのだ。分かりやすい戦争礼賛の教材だけでなく、ハンバーガーショップの教材であっても「英語教育はイデオロギーと決して無縁ではない」と喝破する辺りが著者の面目躍如であり、日本史、あるいは文化史についての知識はあるに越したことはないにせよ、英語教育について特に知識がなくても読み通せる構成・内容でまとめられているのは流石と言う他ない。具体像が描きやすいよう、当時の経験者の言葉なども随所に引用されている。

敢えての批判をひとつ。著者は、文科省が英語教育実施状況調査などを通じて、「実用英語技能検定(英検)○級を50%達成」といった「実用目的」的な目標で生徒・教員を追い立てることに否定的で、英検やTOEICが作られた経緯にも触れた上で、その程度の目標を達成したところで「英語でコミュニケーションができる」などとはおよそ言えないことを指摘している(pp. 239–240)。その一方で、同調査の結果が「科学的に根拠のない」、「統計的に信用できず、はっきり言ってウソだ」ということの理由の第一に「英検3級取得相当との『みなし』には教員の主観が入り、水増しできる」ことを挙げ、第二に、自治体によって英検等の受験率が異なることから、「ほぼ全員に英検などを強制受験させている」ような自治体は「取得率は増える」と述べている(pp. 243–244)。

こう書くと、理由の1点目について教員が主観で甘めに評価をつけている(実態があり、そのことが問題であるかの)ように響くが、前半の主張からすれば、英検等自体の妥当性や信頼性が疑われなければならないのではないだろうか。

もし英検等の評価が「科学的に根拠のある」数値なのだとすれば、理由の2点目は成立し得ないはずである。評価規準が厳格なままであれば「強制受験」によって受験率が上がっても取得率はそれまでと大きく変わらないはずで、ある年度に外部試験を「ほぼ全員に強制受験」させた自治体が前年度から数十%も数値を上げたとすれば、試験自体のダンピングの可能性を疑うほうが自然であろう。そうでないとすれば、理由の1点目の「教員の主観」は必要以上に厳しく、実力的には基準を満たすのにそうみなされてこなかった、という解釈になるはずだ。要するに、理由の1点目と2点目はそのままでは矛盾するのだ。

そもそも教育において完全に主観から免れ得る評価など存在しない。外部試験等のスコアで目標管理するやり方に懐疑的だとすれば、英語「教員の主観」は専門職集団の力能の一つとして擁護されるべきものであっても、批判の対象ではない。実態として「教員の主観」が自治体により、あるいは教員個人により、その妥当性・信頼性に大きなバラつきを示しているとしても、養成・研修・実践を通じてアセスメント・リテラシーを鍛え、学習者や周囲の信頼を得ていくことこそがこれからの英語教育に必要なことだと思うのだが、どうだろうか。

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